琉球、奄美、トカラ列島をフィールドに研究されてきた民俗学者の酒井卯作さんが、「海の産屋」の感想をお書き下さいました!雑誌『きらめき プラス』Vol.63の巻頭シリーズに掲載されています。
長年各地を歩いて、庶民の生活に接し、語りを聞いてきた酒井さんならではの「海の産屋」論。抜粋になりますが、ご紹介させていただきます。
冥土の細道(抜粋)
酒井卯作
(民俗学者・1925年長崎県生まれ)
今年の正月二日、私は東京中野区の「ポレポレ東中野」の劇場で『海の産屋・雄勝法印神楽』と題する記録映画を観ました。
「ヴィジュアルフォークロア」を主宰する北村皆雄氏が、戸谷健吾氏と共同作成した記録映画で、舞台は宮城県雄勝半島にある石巻市の漁村、立浜。
この立浜地区も東北大地震のときの津波の犠牲になったところです。高台にあった一軒を除いて全滅。地区の人口の半分にあたる151人の命も失いました。
震災から一年すぎて、変わり果てた自分たちの地域を立て直そう。仮設住宅から戻って来た12人の地元の漁師たちが、まず考えたのが、六百年の昔から伝わる地元の神楽の再興でした。
神の祭りは荒廃した人たちの心を結びつける。地区を離れた人も、地区に戻って来た人もこの神楽の再興に力を合わせようとする姿を、カメラが追います。
「津波の後は漁が多い」と語る漁師、「いっさい、いっさい海を恨んでいねぇ」という漁師たち。みんなが悲しみを押し殺して、前に進もうとする姿が美しい。
この記録映画を見ながら、私はもう一つの悲劇の島、北海道の西の海にある奥尻島のことを考えていました。寛保元年(1741年)やはり大津波で全滅した島です。さらに近年は平成5年に津波に見舞われています。
島の歴史が不幸ならば、この島の近くを通る船もまた難儀でした。海岸近くは岩礁が多く、そのために遭難する船も多かったのです。
島の北部の砂地を掘ると、人骨がよく出るというのも、たぶんその時の犠牲者なのでしょう。
昭和17年に、この島を訪れた考古学者の深瀬春一氏が、『島と島人』(本山桂川編)という本の中で、その不幸な人たちの話をしているので紹介してみます。
それは奥尻島の岬の近くに住んでいたという、船元正男氏ら兄弟3人からの聞き書です。
この兄弟が、まだ15、6歳の頃、その頃は兄弟3人と祖母の4人で暮らしていました。
ある雪の降る寒い夜、戸を叩く人がいる。祖母が「ハイ」と答えて戸を開けると、5、6人の男たちが立っていて、「寒いので火にあたらせてほしい」と言います。
祖母はイロリの灰に埋まった火をおこし、さらに大きな薪を添えて部屋を暖めた。よく見ると、男たちは髪は乱れて顔は真っ青で、その姿は影のようにぼんやりしていたそうです。
まさしく、この世の人ではない。兄弟は3人とも怖くなって、布団の中に逃げこんで震えていたそうです。
祖母は気丈な人でした。私たち(兄弟3人)をおこして酒を温めてこの人たちに振舞った。この訪問客は、やがて礼を言って立ち去ったそうです。
その翌日、別の漁師たちの言うことには、昨夜、くらい海の向こうから「寒い、寒い」という声が聞こえたと語っていました。
漁師たちは、板子一枚下は地獄だと言います。その地獄と向き合いながら生きる人たちの、これは悲しい一コマです。
話を元に戻しましょう。
上演された伝統の神楽。その演目の見どころは、海の神の子を身ごもったトヨタマヒメの出産の場です。
『古事記』では、産屋はのぞき見しないという約束なのに、その約束を破って海の神は産屋を見てしまうということになっています。トヨタマヒメの姿は、じつは八尋(やひろ)にある大きなワニでした。
この立浜地区の神楽は、トヨタマヒメが無事に出産を終えて、舞台に作られた産屋から現れます。その時抱かれる赤ん坊は、立浜地区でその年に生まれた子どもです。
2012年、この地区で震災後、初めての子が生まれました。その子が、母親の手から離れて、仮面を被った神女に抱かれると、その大きい異様な面を見て、赤ん坊が泣き出す。それを見た会場の人たちから、ドッと笑いが起こりました。
その子は成長したら、きっと健康で良い子になるでしょう。
神楽はこうして終わります。海のほとりには、常に生と死、悲しみと悦びの二つの世界が波打っています。
今年の正月は、そのことを考える良い機会でした。
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